Hope

2020.01.10

Hope

年始の初めに東京郊外にある実家に帰省した。帰路には電車を使う。線路は都心のターミナル駅から東京郊外まで高架が続いている。高架上を進む電車内が環八を過ぎる手前あたりから、遠くに重なる山の峰がはっきりと見える。眼下には、数年前まで毎日見続けた街の風景。色とりどりの一軒家の屋根には、時々太陽光パネルが反射している。太陽光発電がさらに普及したら、住宅街を通り抜ける電車から外を眺める通勤者にとって、ある種の公害になるのではないか?と考えてみる。妄想が飛躍して街の風景は一見して何も変わらないが、どこか新しい街を見る気持ちで流れる風景を眺めていた。

ふと自分が知っている街の痕跡をみたくなり、実家がある駅の手前で降りた。向かったのは、大きな池が2つある公園。駅の一番近い池の周りは遊歩道になり、大きな家やマンションが立ち並ぶ。池の水面も近く、森が続く景色はどこかストックホルムにあるウルリクスダール宮殿周辺の景色を思い出す。昔、ガイドブックを持たず、見知らぬ国に飛行機で飛び、電車に乗り、適当な駅で降りて散策するというのを行なっていた時期があった。そのような時にスウェーデンで感じた感覚を逆に地元の公園で感じたというわけだ。

人間は懐かしさを感じることができる。哀愁というのだろうか。じっと、ただずっと動かず、飽きずに目の前の風景を眺めることが、歳を重ねるほど感じ入ることができるようになる。まだ、当時20代だった私は、嬉しい気持ちが勝り、ぐるぐるとその周辺を歩き回った。ある意味で何も縛るものがなかったので、純粋にその場を楽しんだ。今行くとどう感じるだろうか。

さて、話を戻す。この公園は実は誰にも知られていない..と自分が思っている撮影スポットがある。20年以上住み、毎週のようにランニングや写真を撮りにきたが、そこだけに注目している人を見たことがないから、勝手にそう思っている。

ビジュアルでも使っている場所は、池の水面が近く、枝がずっと水の方まで伸びいている。特に冬は水の透明度が素晴らしく、早朝に行くとシーンと静観な風景が水の鏡の中にまで広がっているように感じる。今回は、太陽が真上まで登りきっていた。写真でわかる通り、枝が反射した光に吸い込まれるよう見えている。その時、枝は人の業みたいに見えた。複数の業が希望に近づきたく、伸びていく。枯れた剥き出しのねじれた枝が生に貪欲な人間の欲の塊のように見えたのだ。

それはリアルである。目を当たれないほどの執着が人間にはある。と思う。と勝手に妄想した一枚でした。